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7.中世(鎌倉・南北朝・室町・戦国・安土桃山時代)

印刷用ページを表示する更新日:2025年12月1日更新

中世(鎌倉・南北朝・室町・戦国・安土桃山時代)

「値賀」の所見について

  鎌倉時代に「値賀」の地名が史料上で確認できる最も古い例の一つとして、1313年(正和2)年□月10日付の佐志浄覚(拳)譲状案(『有浦文書』所収)の中に、「肥前国松浦西郷庄値賀村」という記述が出てきます。
  鎌倉時代、松浦地方では松浦党と称される武士団が活発に活動しており、彼らの存在が地域の歴史を特徴づけています。例えば、地元の長倉遺跡からは、鎌倉時代の石敷遺構や、中国・朝鮮半島から輸入された陶磁器などの品々が見つかっており、当時から他国との交流や進んだ文化がこの地に根付いていたことが窺えます。また、平安時代末期から鎌倉時代初頭頃のものとされる瑞花双鳳八稜鏡も出土しています。
これは佐賀県内では数少ない完形品であり、貴重な資料の一つです。
松浦党とは、肥前国松浦郡(現在の佐賀県東・西松浦郡、長崎県南・北松浦郡、松浦市、平戸市など広範な地域)を拠点に、主に貿易業、漁業、時には水軍(倭寇的な活動も含む)として活動した武士団の連合体です。「海の武士団」とも呼ばれました。彼らは居住する地域によって、斑島(まだらじま)氏、佐志氏、波多氏、有浦氏、値賀氏、石志氏、相知(おうち)氏、大川野氏などの上松浦党と、松浦氏(平戸松浦氏)、青方(あおかた)氏、宇久氏、平戸氏、大島氏、志自岐(しじき)氏、中村氏、早田氏、山代氏などの下松浦党に大別されます。彼らは一族で団結して行動するという特色を持ち、元寇の際にも活躍しました。
美術工芸品としては、国指定重要文化財「木造薬師如來坐像」(12世紀・東光寺所蔵)や佐賀県指定重要文化財「木造聖観音菩薩坐像」(1342年・普恩寺所蔵)、玄海町指定重要文化財「木造薬師如来坐像」(1582年・石田区所蔵)があります。

有浦氏について

有浦大和守(高)は有浦郷に定住し、上松浦党を率いる波多氏の重臣として活躍しました。文禄の役では、肥前名護屋城に駐在し、豊臣秀吉のために茶室を建てるなど、留守居としての職責(実質的な接待役)を務めています。天正8年(1580年)に嫡男の「至」が戦死したため、次男の六平次(治)が家督を継ぎました。
波多氏が朝鮮出兵における不手際により改易(所領没収)となった後も、有浦大和守高は所領を安堵され、新たにこの地を治めた寺沢氏の与力となりました。
文禄2年(1593年)閏9月18日の豊臣秀吉朱印状(佐賀県指定重要文化財)は、「肥前国上松浦郡有浦之内百七拾石」が有浦宗珊(有浦伊賀守正)へ安堵されたことを示しており、有浦氏の所領が引き続き認められていたことがわかります。
 慶長13年(1608年)に唐津城が完成したことに伴い、唐津藩主の寺沢志摩守(広高)の与力(配下)となりました。
大和守の弟である伊賀守(正)の系統も同様に有浦郷にあり、秀吉の旗下となりました。正の子である好右衛門(伝)や、その子の五兵衛(重)、そして六平次の子の伊兵衛(昌)らは、引き続き寺沢氏に仕えました。しかし、寛永18年(1641年)の寺沢氏断絶後は、一時的に浪人となりました。慶安2年(1649年)に大久保忠職が唐津藩主となると、伊兵衛や五兵衛は共に大久保氏に再仕官を果たしました。
 延宝6年(1678年)、大久保氏が下総国佐倉へ転封になったのに伴い、有浦氏の二家は唐津を離れました。さらに、貞享3年(1686年)に主家が相模国小田原へ転封になった際も、有浦氏は主家に従って佐倉を経由し、小田原へ移りました。以来、現在に至っています。
なお、大和守系の有浦家は、昌の孫である五左衛門(威)が元禄年間に急死したため断絶となりました。その後、伊賀守系の有浦家が廃藩まで大久保氏(小田原藩)に仕えることになりました。
有浦家文書 朱印状
    秀吉朱印状(レプリカ)佐賀県指定文化財

肥前國上松浦/郡有浦之内/百七拾石事令/扶助异全可/領地候也/文禄弐(1593)/閏
九月十八日(朱印) /有浦宗珊※
              
      ※有浦大和守の弟 ◎知行禄高 170石   佐賀県立図書館所蔵

有浦家文書

『有浦家文書』は、文暦2年(1235年)を最古に、鎌倉中期約20点、南北朝期約70点、室町末・安土桃山(織豊)期約100点に及ぶ中世史料群です。これらは有浦家から昭和63年(1988年)に佐賀県に寄贈され、佐賀県立図書館に収蔵され平成2年(1990年)3月には佐賀県指定重要文化財となりました。
一方、近世・近代史料878点(主に江戸時代の唐津藩・小田原藩政に関する資料)は、有浦家が小田原藩士となった経緯から、小田原市立図書館(小田原市)に寄贈され、昭和63年(1988年)11月に小田原市指定重要文化財となっています。
 また、有浦大和守夫妻の宝篋印塔が平成15年(2003年)1月に玄海町指定重要文化財となっています。

山城について

  町内には高江城跡、値賀城跡のほかにも中世戦国期の山城があったと云われています。
岩崎古城は、諸浦強(佐志諸浦二郎三郎強)の居城と伝えられていますが、文献が少なく、築城年代や歴史的経緯などの詳細は不明な点が多いです。
  湯野木山城跡は、立地や周辺状況から佐志氏ゆかりの城、あるいは高江城の支城(高江城のある山稜から直線距離にして東側約1km付近)であったと推測されます。ただし、これも確固たる史料に基づくものではなく、あくまで推論の域を出ません。

高江城白椿伝説

波多家の没落に伴い、家臣であった高江城主の有浦大和守もまた、運命を共にして自刃しました。(※1)その際、彼は家重代の金の茶釜(※2)を、敵の手に渡らぬよう城中の土深く埋めたと伝えられています。
有浦大和守の奥方は殊のほか白椿を愛しており、城内には数多くの椿が植えられていました。早春になると、それらの椿は春の先駆けとして見事な花を咲かせ、そのふくよかな香りが城一帯に漂う風情は格別でした。
しかし、高江城が廃城となって以来、城跡の椿は次第に数を減らし、残った木々も花を咲かせることはほとんどなくなりました。
そうした中、いつの頃からか、まことしやかに次のような話が囁かれるようになりました。雪の降る大晦日の晩だけ、たった一本残った椿の枝に、ただ一輪の白椿がひっそりと花を
つけるというのです。そして、どこからともなく妙なる管弦の音が聞こえてくると、積もる雪の一箇所が、あやしく黄金色に光り輝き始める。それは、その真下に黄金の茶釜が埋められていることを示しているのだと。
しかし、人がその光に近づこうとすると、いつの間にか音楽は途絶え、光も消えてしまうのでした。

 (※1) 自刃した記録なく、有浦大和守は波多氏改易後も所領を安堵され、唐津藩寺沢氏の家臣となっています。
(※2) 有浦氏は、名護屋城で茶会が催しされる際、茶道具を貸したとされる。このことから、秀吉=黄金=茶道具→黄金の茶釜となったのではないだろうか。

値賀の地名と値賀氏について

『値賀史』(1958年・昭和33年発行)によると、「値嘉島(ちかのしま、長崎県五島)の中の小値賀(おじか)島(長崎県北松浦郡)を領土としていた値賀氏の祖先(値賀十郎)が、この地名にちなんで値賀氏と称していた。その値賀氏の別家が玄海町に上陸して値賀地域の支配権を握り、その支配者の姓がそのまま値賀の地名になった」と伝えられています。
鎌倉時代後期の1313年(正和2年)□月10日付の佐志浄覚(拳)譲状案『有浦文書』には、「肥前国松浦西郷庄値賀村……」との記述があります。
戦国時代、値賀地域を治めていたのは値賀城主の値賀伊勢守長でした。
値賀伊勢守長は値賀郷に定住し、上松浦党の一員として活躍しました。文禄の役では、有浦大和守らと豊臣秀吉の接待役なども務めています。波多氏改易後も、文禄2年(1593年)閏9月18日の豊臣秀吉朱印状により「肥前国上松浦郡値賀之内五百弐拾石」の所領が安堵されました。
その後、値賀氏の一部は、当地(唐津)の領主となった寺沢広高の転封に伴い天草に移住し、天草・島原の乱では富岡城に籠城して一揆軍と戦いました。寺沢氏の断絶後も、値賀氏の子孫は代々天草に住み着き、その歴史を記した「値賀孫左衛門追遠之碑」が上天草市大矢野町に建立されています。
子孫である値賀七左衛門安部詢によって江戸時代(文化11年、1814年)に建立された夫妻の供養塔(値賀伊勢守夫妻宝篋印塔)が、玄海町の指定重要文化財になっています。これは通称「おたっちょ様」と呼ばれています。値賀伊勢守長の没後2015年に地元で400年祭が執り行われるなど、現在も地元で顕彰されています。

町内に残る陣跡について

豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」(1592~1598年)の際に築いた名護屋城跡と、これに従った全国諸大名の陣跡約130か所が、唐津市(呼子、鎮西)と玄海町に築かれました。
 町内には、国指定特別史跡(1987(昭和62)年12月25日指定)の木下利房陣跡(値賀川内)と長谷川秀一陣跡(値賀川内)と、木下利房陣跡(値賀川内)があります。他に、玄海町と唐津市にまたがる京極高次陣跡・毛利輝元陣跡(共に未指定)があります。

石工について

  玄海町の石工の始まりは、桃山時代の名護屋城築城に石工頭として尽力した徳永九郎左衛門に遡ります。彼は築城後、値賀川内に移住し、玄海町石工の祖となりました。九郎左衛門は、名護屋城築城の石垣造りの功労により、「唐津御領内の山並びに屋敷内軒先三尺以外の石は勝手に取ってもよい」とされるほどの特権を持つ石工頭であったと伝えられています。
狛犬など徳永一門が手掛けた石造物は、町内をはじめ唐津市内にも数多く残っています。近年は、値賀川内・座川内で数軒が石工業に携わっていましたが、現在では、石材業を営む事業所は値賀川内の1軒となりました。

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