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8.近世(江戸時代)

印刷用ページを表示する更新日:2025年12月1日更新

近世(江戸時代)

新田開発について

玄海町(有浦村・値賀村)は唐津藩領となり、唐津藩における新田開発は慶長年間から元和年間(1596~1624年)にかけて進められました。寺沢広高(唐津藩初代藩主)時代には有浦新田造成工事が行われ、新田から諸浦、有浦上の一部(高江城の麓)が18年かけて造成して完成しました。玄海町の土地が長い時間をかけて人々の手によって開拓され、現在の姿になりました。造成総面積は28町1反2畝7歩(約28万平方メートル)でした。
その他、普恩寺の池田新田や座川内水田も、座川の水流に目をつけ、井堰を造って盆地に開発したものと伝えられています。
 土井時代の宝暦年間(1751年~)には牟形の大串新田工事が行われ、畝数は6町9反7畝9歩半(約7万平方メートル)と云われています。
有浦新田干拓

文化年中(1804年~1818年)の玄海町の人口

「松浦拾風土記」によると、男: 2,267名、女: 1,840名 合計: 4,095名でした。2025年10月末現在の人口は、男: 2,469名、女: 2,367名 合計: 4,836名です。

伊能忠敬の測量記録について

伊能忠敬は寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、約17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させました。1812年(文化9年)、伊能忠敬一行が玄海町で測量したことは日記に残されており、以下の内容が記録されています。

期間: 4日間
測量地: 「今村海辺より今村、普恩寺村、平尾村、浜野浦村、大薗村、仮屋十倉、大薗海辺、仮屋畳崎、石田村、島々(三島、幸福島、仏島、藤島)、有浦川、諸浦村、牟形村、ウゲヤ島、玉子島、牟形村字大串新田(別手と合流)、竹ノ子島、丸瀬島、ワナレ島」など。

新田干拓の人柱にまつわる三本松伝説

玄海町新田地区の有浦新田開発は、今から約400年前、唐津藩主寺沢広高の時代に行われた干拓工事によって拓かれた土地です。
この工事に関しては、以下のような伝説が地域に伝えられています。

工事は28ヘクタールにも及ぶ大工事でしたが、何回も洪水や海水に押し流され崩壊したため、人々は海神の怒りだと考え、それを鎮めるために人柱を立てることを決めました。
人柱を誰にするか決めかねていたところ、そこへ通りかかった一人の遍路(お遍路さん)が「防波堤は必ず守ります」と言って鈴を鳴らしながら穴の中に入っていきました。
この後、工事は18年かけて無事に完成したと伝えられています。
人柱があった場所は、新田地区の仮屋橋から東へ約50メートルの所にあった「三本松」のあったところだとされ、そこを通る際には、遍路が咳き(せき)をしていたという話から、咳を「ゴホン、ゴホン、ゴホン」と三回してから通らなければならないという言い伝えもあります。
新田松並木(昭和初期)
新田松並木(昭和初期)

町内に残る文化財

  江戸時代(18世紀中頃)に、日常使用する磁器の茶碗類を焼いた諸浦窯跡や玄海町大字池尻の沖合海底に位置する、江戸時代(天保年間・19世紀頃)の陶磁器が多数発見された水中遺跡があります。
  値賀川内の石工集団・徳永氏によって建立された白山神社の一の鳥居が残されています。
池尻海底遺跡
池尻海底遺跡出土品

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