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6.古代(飛鳥・奈良・平安時代)
印刷用ページを表示する更新日:2025年12月1日更新
古代(飛鳥・奈良・平安時代)
飛鳥時代から平安時代初期において、現在の玄海町域に関する詳細な文献記録は少ないものの、この地域は大陸との交流拠点である「末盧国(まつろこく)」の一部であり、古くから開けていたと考えられます。有浦村や値賀村といった村の名称が明確に文献に現れるのは、一般的に荘園制が発達した平安時代後期以降や中世以降と考えられ、その正確な成立時期は判然としません。
740年(天平12年)、政権の不満から福岡県の大宰府で挙兵した藤原広嗣に関する伝説は、仮屋地区や唐津地域に今も残されています。広嗣は乱に敗れた後、肥前国松浦郡の値嘉嶋(現在の五島列島付近)まで逃亡しましたが捕らえられ、斬首されました。
広嗣の死後、彼の霊は怨霊(おんりょう)となり、天候不順や疫病の流行など天朝(朝廷)を悩ませた(祟った)とされ、その祟りを鎮めるために各地に国分寺・国分尼寺などが建立されたという種々の伝説が伝えられています。
740年(天平12年)、政権の不満から福岡県の大宰府で挙兵した藤原広嗣に関する伝説は、仮屋地区や唐津地域に今も残されています。広嗣は乱に敗れた後、肥前国松浦郡の値嘉嶋(現在の五島列島付近)まで逃亡しましたが捕らえられ、斬首されました。
広嗣の死後、彼の霊は怨霊(おんりょう)となり、天候不順や疫病の流行など天朝(朝廷)を悩ませた(祟った)とされ、その祟りを鎮めるために各地に国分寺・国分尼寺などが建立されたという種々の伝説が伝えられています。
仮屋の広嗣伝説について
『松浦記集成』の「鏡大明神二ノ宮・別録縁起」には、次のように記されています。「板櫃川合戦に敗退後、ひとまず、三韓に至りて討手を防がんと思召し、松浦郡假屋の浦に出でたまひけれど、龍馬(龍駒)は一歩も進まず、此時龍馬の平首を打ち落して是を脇にはさみ、浮木にまたがりて海上に浮み玉ひぬ。舎人なる者龍馬の胴を埋み其所に自害す。此所の者共諸手を上て招き留め奉れども、風浪荒くして沖に出で玉ひ、茅原ヶ浦に着き玉ひぬ」。
この記述と関連して、地元では以下のような伝承も伝えられています。
広嗣公は板櫃川の合戦に敗れた後、この仮屋浦から船出して難を逃れようとされましたが、御持病であったご脳痛が痛まれたため、漁夫たちが急ぎ仮屋を建てて静かに介抱し奉った、という話です。この故事にちなみ、以後、この浦を仮屋浦と呼ぶようになりましたとされています。
また、仮屋の崎には、広嗣公の愛馬(龍駒)の胴体と、殉死した従者(舎人)を埋葬したと伝えられる竜馬社(りんこまさま)が現存します。
この記述と関連して、地元では以下のような伝承も伝えられています。
広嗣公は板櫃川の合戦に敗れた後、この仮屋浦から船出して難を逃れようとされましたが、御持病であったご脳痛が痛まれたため、漁夫たちが急ぎ仮屋を建てて静かに介抱し奉った、という話です。この故事にちなみ、以後、この浦を仮屋浦と呼ぶようになりましたとされています。
また、仮屋の崎には、広嗣公の愛馬(龍駒)の胴体と、殉死した従者(舎人)を埋葬したと伝えられる竜馬社(りんこまさま)が現存します。
空海(弘法大師)伝説
平安時代初期の僧侶で真言宗の開祖である空海は唐から帰国後、筑紫(福岡)に約2年間滞在しており、九州各地に足跡を残したとされています。『日本後記』に空海らが乗船した遣唐使一行の行程について「去年七月六日。発レ従ニ肥前国松浦郡田浦一。」とありますが、「田浦」の現在の正確な位置は特定されていません。
仮屋の松ヶ崎付近の「田ノ浦」は、空海が遣唐使船で帰国した際に立ち寄った、あるいは船出した「田浦」に、この地にも関係する伝承が生まれたと考えられます。
仮屋の松ヶ崎付近の「田ノ浦」は、空海が遣唐使船で帰国した際に立ち寄った、あるいは船出した「田浦」に、この地にも関係する伝承が生まれたと考えられます。




